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僕が離婚を決めたわけ、離婚までの長いお話と、こんな人は辞めた方がいい私見

この人と付き合い始めてもうそろそろ結婚かな、でも本当にこの人と結婚してもいいのかどうか悩んでたりしませんか?

結婚を決めるという事は、大きな人生の転機を迎えることになります。しっかりと考えたいものですが、判断の基準は何なんでしょうか。

この記事では、そんなあなたに僕の経験からアドバイスを差し上げたいと思います。

最後までご覧ください。(長文です。結論から読んでも構いません)

出会い

出会いは、職場でした。ただ、相手の仕事をしているところを見たことはなかったんです。

とある大手流通系の大阪本社に勤めていた1994年。僕たちはお歳暮の応援で知り合いました。
繁忙期になると、それぞれ自宅近くの店舗でお歳暮やお中元の応援をすることになっていたのですが
偶然に同じ店舗での応援になり、知り合ったのがきっかけでした。

同じ本社に勤めているとはいえ、フロアが違うので相手のことは全く知らない存在だったんです。
その後、職場の仲間でスキーに行く企画で、また一緒になり、付き合いだしたんです。
オフィシャルなスキーツアーではなかったため、自分たちで企画した1泊の岐阜へのスキー旅行でした。

なかなか積極的に盛り上げてくれる子で、いいなぁと思ったのが始まりでした。

けれど、その後、僕はすぐに東京に転勤してしまいます。。。。1995年春でした。
たったの数カ月でした。これで終わるかなと思ったかもしれないのですが、その後僕たちは続くのです。

僕たちの18年

僕は、東京に転勤になった後しばらくして、東京近郊の店舗勤務になってしまうのです。
そんな時、大阪本社閉鎖、本社は東京1本社制になり、それに伴って奥さんが東京本社に異動してきたのです。その時も、まさかその先も続くとは思いもしませんでした。

結婚まで

時は戻って、僕が東京勤務していた時です。遠距離は続けていたものの、お互い遠距離で将来はどうするかは全くの白紙だったのですが、お相手の東京異動がきっかけで僕たちは一気に近づいたような気がします。

しかし、僕は店舗勤務という事なので土日は出勤。奥さんとは休みのすれ違いはありました。
イベントがあったとしても、それはお店が忙しい日でなかなか休みも取れず、寂しい思いをさせたのかもしれません。その時からわがままだなぁと思うことはたくさんありました。例えばクリスマスは休みを貰えとか、土日に旅行に行きたいとか。。。

そんな生活が2年ほど続きましたが、奥さんが仕事が嫌で退職してしまうのです。理由は「寿退社」という事にして。
どうしてもいやなら辞めてもいいんじゃないとの話はしていたのですが、まさか理由を僕にして辞めるとは!その時はつゆ知らず、後々そのことを聞いてびっくりしてしまいました。

さらに驚いたことが起こったのですが、相手が退職して大阪に戻った数か月後に、僕は、その相手の勤務していた事務所に転勤になったのです。

新任地の事務所に着任して、朝礼で挨拶しましたが、300人も勤務するような大きな事務所で、僕は今までの店舗勤務から全く違う仕事になり戸惑うばかりでした。そんな大きな事務所の中で、妙に周囲の人が声をかけてくれたりして、なんか今までの転勤とは違う気がしてはいたのですが、人事の課長から「いつ結婚するんや?」とストレートな質問で、自分の置かれた状況を理解したのです。「げっ!みんな知ってるんや~」って。あんまりいい気はしないもんですね。笑

結婚まで

彼女は、花嫁修業という名目で大阪の実家に戻りました。事務所に異動するまでに勤めていた店舗は、東京の隅っこの方だったの、通勤が遠くなり引っ越すことにしました。
たぶん、このころには結婚しようという事になっていたと思います。勝手に寿退社されていたこともあって、本気にならんと行けないかなって思ったんじゃないでしょうか。あまり女性の事を知らない僕は、女性はわがままなんだと思い込んでいたかもしれません。
二人で新しく家を探すことにしたのですが、僕の給料だけで住める家となると、都心からは遠く離れてしまい、通勤時間は1時間越えで、埼玉県の奥の方に住居を構えることに。そこまで広くなくてもいいのになぁと思いつつ3LDKの家を借りました。

彼女の実家は自営業です。兄弟も4人いてみんな小学校から大学まで私立に通っています。大阪の郊外でそこそこ大きな戸建てでした。外車が3台ぐらい停まっていました。
僕は公務員の息子で、家族4人ぐらし。両親ともに田舎育ちで、仕事で大阪に来た田舎者。市内の公営住宅で暮らしていました。。そもそも家庭環境は違っていたと思います。

新婚で2人なのに、都心から遠く離れた場所で駅からも徒歩10分。3LDKの賃貸で新しく生活することになりました。しかもしばらくは僕一人で。です。

それから結婚まで2年かかりました。
結婚に関しては全く知識がなく、特にこだわりもなかった僕は、なるべく彼女のしたいようにさせてあげたいという気持ちでした。彼女はどうやら、今思うと豪華に結婚式をやりたかったようなんですが、親戚からは相手は普通の会社員なんだから質素にと諭されていたんだと思います。

奥さんの希望は

  • 両親の顔合わせは、どこかのホテルで
  • 結納は、して欲し
  • 結婚式は、横浜の街の教会で
  • 披露宴は、たくさんの友達を呼んで
  • 新婚旅行はヨーロッパに

というものでした。僕は

  • 結納するぐらいなら、新生活の費用にしたい
  • 顔合わせは、こだわりなし
  • 結婚式もこだわりなし
  • 披露宴は恥ずかしいし特に遠慮したい
  • 新婚旅行は、学生時代に行ったことのあるロンドンとか

この意見の対立で2年かかったのです。
実際は、結納はなし。
式は、親戚が多い関西で横浜に似た神戸の教会
披露宴は親戚だけで、新婚旅行はロンドンに。
実は、結婚式の衣装は、レンタルではなく購入しています。
結納はしていないけど、大きな婚礼箪笥 2竿を義母さんが買ってくれました。
婚約指輪も結婚指輪も、お付き合いのある大手百貨店の外商さんからお安く購入してもらっています。

お金はいろいろと掛かっています。

解説をしますと
花嫁衣裳
結婚式の衣装は、好きなブランドがブライダル事業から撤退のため、格安価格でレンタルするよりも安く買えたらしいのですが、なんと2着購入しています。
それはそれでいいかもしれませんが、その後の生活では保管場所が広くとられてしまい、あと何回着るのか知りませんが、かなり邪魔でした。

結納について
家と家の結婚だから、結納はして欲しいとは相手側の家の意見でした。

娘をやる側としては当然という意見はよく耳にするのですが、個人同士の結婚だからこのご時世いいだろうという意見も多く、僕は経済的事情から後者がうれしかったのですが、なかなか聞き入れてもらえませんでした。
両親が挨拶に行って、その代わり結納はしないという結論に終わりましたが、ここが最後までもめたところでもありました。

式場について
わざわざ横浜にしたら、交通費がどれだけかかるんやという理由で、神戸を提案しました。義母さんと神戸で探してもらったのですが、キリスト教の信者でもない2人がその教会で式を挙げるためには、牧師さんの話をちゃんと聞く事という条件があり、僕は話を聞くために、3回東京から夜行バスで神戸に通っています。
僕はその事務所では、過酷な労働を強いられました。早朝6時から23時ぐらいまでは勤務しており、今思えば、せっかくの休日にかなりの体力的に負担でした。

新婚生活

そんなこんなで、新婚生活が始まるのですが、いろいろ苦難を乗り越えて結婚できたんだと当時は思っていました。いや思い込んでいました。

大阪から引っ越してきた奥さんに待っていた新婚生活というのは
僕は早朝から深夜まで会社で、ほとんど不在。
埼玉の奥の方は、大阪の郊外の実家よりもさみしく、当時車の運転もできなかった奥さんは自転車で近所に買い物ぐらいで、寂しい思いをすることに。

ある日、結婚指輪を無くしてしまった僕は、帰宅してすぐにばれるのですが、「探してこい」って言われて、駅から自宅までの道を何度も行ったり来たりしながらうろうろ探すことになりました。
でも、暗いし見つからないしで、自宅に戻るのですが、大喧嘩になってしまいました。
あまりにも怒り過ぎた奥さんは「過呼吸」になってしまいます。
当時初めて見た過呼吸に驚いて、救急車を呼んだんですけど、「恥ずかしいからやめて欲しい」って言われまたすぐに消防署に電話しました。でもいったん出発した救急車って止められないんでしょうか。消防署では「止められません」と。ご自身で止めてくださいって言われてしまいました。

電話している最中に遠くから、救急車のサイレンが聞こえてきまして、消防署の人に教えられた通り、走って救急車のところに行き事情を説明して帰ってもらったのです。
でも静かな町にサイレンが響いたものだから、たくさんの人が駆けつけて「被害者はどこですか~」って一般の人たちが騒ぎ始めて、、、

「とにかく救急車は帰ってください」とようやく赤ランプ止めてもらって静かに帰ってもらいました。その後の僕は自分の車で奥さんを病院に連れて行き点滴打ってもらって、帰宅したのは朝の5時ごろでした。恥ずかしいから救急車止めての意味がいまだに分かりません。乗ればよかったのに。って今でも思います。

その頃から、いや以前からあったのかもしれませんが、何か事あるたびにわめく、騒ぐで喧嘩に。1軒の家の1階と2階に賃貸で2世帯しか入っていない建物だったので、どたばたと喧嘩の最中には下の人から「もっと静かにしてくれ」と怒鳴り声もあったんです。

何か気に入らないことがあると、怒ってくるし、僕が謝るまで延々言われ続けるわ、無視できないわ、寝てたら熱湯持って来られるし、ある時は包丁も出してきて。。
これは怖いなぁと思ったけど、結婚してしまったのが運の尽きと思うようになってしまったのでした。
結婚後半年ぐらいでこんな状態になりました。

僕が一番ひどいなぁと思ったのは、車の運転ができるようになったのはいいんですけど、自宅前に車停めてて、深夜に駐車違反取られて、なんで違反金と点数は僕が取られなあかんねんってことでした。
「私はゴールドだから、あんた行ってきて」とはよく言えたものですわ。

子供が出来て

そんな状態だったのに、子供が出来てしまいました。子供のためにも頑張らなければ(耐えなければ)と思うようになりました。あまりにも、東京までが遠すぎて、近郊の市に引っ越すことになりました。
新築の駅近で家を見つけてはくれましたが、家賃はそれまでの倍になりました。駐車場込みで13万円/月。県からの補助がもらえるのですが、年々下がって20年後には補助は0円。支払いは18万円ぐらいにまで上がる住宅でした。

子供はその数か月後に生まれたのですが、家賃と生活費の兼ね合いで僕の小遣いはなくなってしまいました。

その5年後に、また店舗勤務に戻ってしまったんですが、東京都勤務ではなくなったこともあって家賃補助は大きく下がってしまい、残業もできないぐらいに会社の状態もきつく手取りはパートさんと同じぐらいの金額まで下がってしまったので、転職を決意しました。

転職で僕はまた都心の事務所勤務地になって、パソコン・携帯電話貸与と、当時ではまだ珍しく携帯2台持ちで、給料も上がって普通の暮らしが出来るまでに給料は増えました。
問題は、その会社月に1回、土曜日に出張があって、飛行機で遠くまで行き会議して日帰りするので深夜帰りになったんです。月に1回だけだったんですけど、土曜日出勤が気に食わないみたいで、転職を勝手に決めたと、その後散々嫌味を言われるようになってしまいました。

でも、彼女は物事を決められない性格のようで、延々と悩んでいるのは、今まででも何回か見てきているので、転職は自分で決めたんです。

その後は、特に大きな問題もなく、ただただ僕の小遣いが少ないというだけで済んではいましたが、子供が大きくなるにつれて、習い事に行かせるようになり、また僕の給料だけでは足りなくなってきました。
家賃も年々上がるので、近くに家を買おうと言い出し、毎週週末には家を見るために車を走らせることが多くなりました。3年ぐらいはやったと思います。

不動産なんて、全部の条件を満たせるような物件はないんでしょうけど、常に欠点を見つけて購入しないという流れを踏んで、いつまで経っても買えない状態が3年ほど続きました。
その間にも家賃は上がる、子供の習い事では金がかかるといった状態で、ますます僕は居場所がなくなってきました。 

そんなある日、近所に居酒屋がオープンするので、アルバイト募集の広告を見た奥さんが、僕にアルバイトに行くようにと言ってきました。
僕は、会社の仕事がその時は18時には終わってたので、家計を助けるために行くことにしました。

因みに、子供が通ってた習い事は
ピアノ (同じマンションの奥さんが安く教えてくれる)
サッカー(Jリーグの選手が教えてくれる教室)
水泳
空手
ボーイスカウト
などやってたと思います。絶対多すぎると思いましたけど。

地元のハウスメーカーが駅から徒歩15分のところに24戸の戸建てを建てていて、ずっと気にしてみていたのですが、最後の1戸だけが売れ残っていました。
モデルハウスにしてて、家具付きエアコン付きで割引してもらって、彼女からしたら、仕方なしにそこに買ったみたいな感じで、引っ越したのが結婚11年目。子供が10歳の時です。

僕は、都内で勤務した後、隣の駅の居酒屋でバイトを深夜0時まで。住宅ローンも抱えて、さらに頑張らないとと思ってはいたのですが、限界に近づいていました。
隣の駅前とはいっても、歩くと1時間はかかるんですが、終電逃したら1時間歩いて帰っていました。

土曜日は、前日の金曜日の居酒屋が忙しくって3時ごろ帰宅というのもあっても、土曜の朝は6時に起こされて子供の面倒を見るように言われてしまいます。
せっかく新築戸建てに引越ししたものの、荷物が多すぎて(婚礼家具もでかく)足の踏み場は相変わらずありません。休みの日は2階の掃除を言いつけられるんですが、彼女の荷物ばかりで、捨てない限り片付かないです。

結婚式の時の衣装も相変わらず、かなりの場所を取ってます。

2階で荷物の片づけ中に僕は家のカギを無くしてしまったようで、その次の週から僕は家に帰れなくなってしまうのです。鍵を開けてもらって中に入れるのですが、事前にメールで伝えないと開けてもらえません。
そのうち、玄関の前に空き缶が置いてあって、その中にかぎが入るような方法に変わるのですが、鍵を空き缶に入れるのは子供の仕事のようです。
子供は時々忘れることもあって、外からドアをたたいても中には入れてもらえず、近くの公園で夜を明かすことも度々あるようになり、そのうちだんだんと自宅には帰らなくなってしまったのです。

離婚まで

こうなると、ローンを35年抱えているのに、自分が買った家にも帰れなく、全く生きてることが意味なく思えてきて離婚を考えるようになりました。知人友人には、「そこまでが遅い」そうですが、子供のためにはやれるところまでは頑張ったつもりです。

義叔父さんが過去にも何度か間に入ってもらっていましたが、家に帰らなくなってからはもう、僕は仲裁を断りました。
その後に家庭裁判所に調停を申請して何度も話を重ねて、離婚支援金なる意味不明な支援金を200万払ってようやく離婚できた次第です。

家庭裁判所の調停員も、信頼は置けないですね。素人の年配の方でしょう、すぐに離婚すべきだと言ってくれてたものの相手に弁護士がついて、離婚後に返却は可能だから、生活費も毎月支払うようにと言っておきながら、離婚本決まりの直前に、余分に払い過ぎた生活費を返せとか注文付けると、男気がないなぁとののしってくる始末です。

相手の弁護士も、200万払ったとたんに態度は手のひら返しで、もらい逃げですわ。

誰も信じられないといった状態でした。

離婚の直前に僕の生活は悲惨なものでした。

泊る所は毎日変わって、野宿もしょっちゅうやってました。
食事は、居酒屋さんで出るまかないだけ。朝昼は食べてませんでした。
自宅に帰ろうにも、鍵がかかってて入れず、1時間歩いて隣の駅前のネットカフェで寝ることもしばしばでした。

その後

僕は、晴れて離婚出来て、200万払って自由になりました。会社員は続けながら居酒屋のアルバイトで、生活は元に戻るぐらいにまで回復しました。いろんなものを買い足しました。テレビとベッドが買えた時はうれしかったですね。やっと人間らしい生活ができると思えた時でした。
居酒屋さんはチェーン店だったのですが、都内の人手不足の店を紹介してもらい、毎日出勤場所を変えながらいろんな店でお手伝いしましたので、休みはありませんでしたが、手持ち資金も回復までが速かったです。大晦日も元旦も働きました。

転勤になったので、居酒屋屋さんは辞めました。料理もいろいろと覚えて、今でも感謝しかないですね。

まとめ

今僕は、落ち着いた生活を取り戻しました。再婚もして幸せな暮らしをしています。

悔やんでいることは、結婚の時にもっといろいろと世間のことを知っていればよかったのにという事です。
相手が女性で、女性はそういうものだと思い込んでた節があるのですが、人間としてどうなのかを見極めた方がいいし、30歳で焦って結婚しなければよかったとも思いました。
相手も焦ってたと思いますが、もっとよく考えた方がよかったと思います。

相手と少しでも合わないことがあると、そこは追及した方がいいですね。
和解するまで延々と話し合いを繰り返すのではなく、合わなくてもやっていけるのかどうか自分自身で考えた方がいいです。

僕にも悪いところはあったんでしょうけど、自分の買った家に帰れない状態なんてありえません。そこまでしてくる人を許せるでしょうか。

僕が出した結論

止めた方がいいと思う相手相手のことを考えていない分け与えない自分中心結論を出せない理解しない・出来ない思い込みが激しい
結婚してもいいと思う相手相手のことを考えている分け与える相手中心結論を出せる理解力がある話を聞く力がある

今の奥さんは、相手を束縛しない人がいいそうですが、そこはどうでしょう。よく言われる条件の一つですよね。その条件は大事なのかどうかは、僕にはよく分からないですけど。

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